お題箱返信・8月まとめ

「救い」とは、世界に対して失望や虚無感を抱き生きづらさを感じていた人がこの世界を愛せるようになること。またはそのための足掛かりになるきっかけの光。
出来事のスケールは問題ではないと思っています。救済となる事象は万人に共通するものではなく、ほんのごく小さな行動や言葉からであっても、人は人生を変えられるような希望を感じ取ることがある。
対人間の出来事に限らず、美しい景色を見た。自分の過去から何かを見出した。そうしたきっかけでも革命が起きることがある。そう、革命という言葉が適切かもしれません。それは既存の秩序の破壊であり、新しい価値観との出会いであるから。

幸せとは何か、という問いは非常に難しいですね。私はまだそれをはっきりとした形で手に掴めてはいないけれど、救済と結びついていると感じています。救済が急性的な感動であるならば、それが恒常的に持続している状況が幸福と呼べるのではないでしょうか。永遠はないので、いつかは終わる時が来るだろうけど、それでも「今得られていてよかった」と不安よりも安堵が勝るような経験。
私は、比較すれば救済の方が簡単だと思っていて。その場限りのことではない恒常的な幸福を得ること/与えることの方が、ずっと難しいのだと思います。




私の人生を変えてくれた本を一冊挙げるなら、それは間違いなく「沈黙」ですね。これを読んだときから私の人生は始まったのだと思う。読んでいなければ、神や信仰にここまでの思い入れを持つこともないままだったかもしれません。

遠藤周作のキリスト教観は「イエスの生涯」が最も明瞭に現れていると思います。彼はイエスキリストという人を人生の同伴者であると考えていた。西洋では父性的・威厳的な見方をされることもあるけれども、イエスが持つ救済の力の本質はそこにはないと。決して上から言葉を投げかける存在ではなく、ただ苦しむ人と共に苦しみ、何よりもまずその痛みを理解するために居てくれる存在。

「沈黙」における解答もその式をなぞっていると思います。私はあなたの痛みを知っている、という言葉以上に、信徒にとって優しいものなどあるだろうか。そしてそれは「母性的」なキリスト教観へと繋がっていく。この見方はきわめて日本的であり、そのゆえに遠藤周作の思想は一部のキリスト教信者から批判されることもあります。

「イエスの生涯」に描かれた当時のイスラエル像は、ユダ以外の誰もイエスの真に伝えようとしたことを理解しなかったという点が克明で、イエスがどれだけの辛酸を舐めながらその地上での生涯を生き抜いたのかを思わされて圧倒されます。
こちらもまた正統派の聖書解釈からは外れるところもあるのですが、私は遠藤周作の見方が創作物としても好きであるので愛読書に数えています。「人としてのイエス」を知りたいと思うなら第一におすすめの一冊です。


これから聖書について学びたいのであれば、記述の構造を理解するための手掛かりとして「イエスの譬え話/山口里子」シリーズをおすすめします。聖書は時代背景もさることながら譬え話の理解が現代日本に生きる私たちには非常に難しく、一人で読み始めても誤読してしまう可能性が高い。そこを正しい読解に導いてくれる解説書として、この本はとても役に立ちました。

キリスト教に興味を持つ方がフォロワーの中にいらっしゃることはとても嬉しいです。これからの勉強があなたの人生にとって有意義なものになりますように。





続報、とても嬉しいです。私はいつもお題箱で悩みを相談してくれた人がその後どうしているか気になっているんですよ。
私のことについては、状況は一旦落ち着きまして来月あたりには新生活を始められそうな予感がしています。少し、いやだいぶ……自分でもびっくりするような人生の展開になっているので、そのうちお知らせできたらいいなと思っています。

救いになっている、と言ってもらえたこと、とても嬉しかったです。私の言葉が誰かの支えになれているのなら、そのことによって私も救われているから。

今回のお悩みに関して言うと、前回から感じていたことではあるのですが、ご家族の方にも些か問題があると思いますね。「きちんと家事をする」ことと「週に一回遊びに出かける」ことはまったくの別問題なので、それで否定される謂れはないと思う。
ショックかもしれないけれど、あなたのご家族はあなたのことを少し蔑ろにしすぎていて、あなたはそういう扱いをされることを当然だと感じてしまったがゆえに、自分の判断に自信が持てなくなってしまったのではないかと憂いています。
私が「こうしなさい」と言うことはそれもまた指図だからしたくないけれど、投稿者さんは自分の心を自由にすることを意識的にやっていった方が楽になるのではないかと思います。人に否定された時に「そうなのかも」と思わず、「本当にそうかな?」と疑問を持てるようになるだけでも、自分の軸を持つための練習になると思います。

もちろん、家事ができるに越したことはないんだけど。でもいつでも誰にでもそれが完璧にこなせるわけではないし、こなせなければ遊んではいけないなんてこともない。人は自分が幸せになるために努力するものなんだから、せっかく見つけた楽しみを過度の義務によって押さえ付けられるのは苦しいものです。「それは苦しいことなんだ」ってことだけでも、感じていて、当然だと受け入れないようにいてほしい。

きっとご家族と折り合いがつかず、大変な思いをすることはこの先も何度もあるでしょう。だけどそのたびに、これは一生じゃない、いつか必ずもっと自由になれる時が来るってどうか思い出してほしいです。失望しないでさえいられたら、いつかその経験も報われる時が来ますよ。あなたの幸せを願っています。





閉鎖病棟に入院したことは明確によかったと感じています。認知行動療法を受けたこともあるけど、積極的に治療に取り組んでくれるお医者さんに出会えて、合う薬が見つかるまで短いスパンで色々なものを試せたので。普段の生活から一度完全に離れることで、自分が何に苦しんでいるのか、どうなりたいと思っているのか向き合うことができたのも大いにあります。

あとは、10年近くも精神病院への入退院を繰り返している人や、自分より症状が重い人たちと出会って、「ここまでならないうちに治したい」と自分自身が治療に前向きになれたことも大きかったです。鬱病のときはどうにもならなくなってもどうせ死んだら終わる、という意識が常に付き纏っていて、大変な思いをしてまで治したいともあまり思えていなかった。私はどん底にいたつもりだったけどそれでもまだ"今からでも戻れる"場所にいる、と思えたことが少なからず希望になったのだと思います。

逆に、それまでは精神科への通院が自分にプラスに働いているとは全く思えていませんでした。実際通っていてもずっと悪化し続けていたわけですし。自分に合うものが見つかれば精神薬が助けになってくれるのは間違いないけれど、結局は自分自身がどれだけ真剣に「治したい」と思えるかにかかっている部分はあって、私はずっとそこまで思えていなかった。
私は精神科に通院するなら、お医者さん任せにして出された薬を飲んでいればいい、と考えるのではなく、自分でも生活上のストレスを減らしたり考え方を変える工夫をしていくことが絶対に不可欠だと思います。これはとてもしんどいことだけど、四六時中死を思うほどまで追い込まれる苦しみに比べればなんて事はない。

結論としては、「行ってよかったことは確実だけれど、それ自体が救ってくれたわけではない」というところになるでしょうか。しかしもし今抑うつで苦しんでいる人がいるのなら、兎にも角にも通院しないことには自力だけで寛解させるのは難しいので、一度病院を頼ってみることはおすすめします。病院の合う合わないもあるので、このままで治る気がしないなと思ったらセカンドオピニオンを考えることも大切と思います。





これは本当にそういうこと!問題は私の場合普段からPCのガワと名前の近似値を使ってインターネットで発言しているという点ですが……。

TRPGは実は何回かやったことがあります。でも難しいですね……特に即興というのが難しい。私はわりと色々と頭の中で考え回してから言葉を出力するタイプで、それでリアルタイム配信なんかもできないわけです。でもとても面白い遊びだと思うから、機会があったらまたチャレンジしてみたいです。
最近はキャラクターの創作といえばVライバーかTRPGかみたいなところありますし、実際かなり近い分野なんじゃないかと思います。






ありがと♡私は私のことを好きでいてくれる人のことが好きです。できるだけ長く愛してね。






ありがとう。私は居なくならないよ、インターネットが終わるまで一緒にいてください。






びっくりしすぎてツイートの方にも載せちゃったんですが、紙マテ読めてなかったので本当に驚きました。私も新しい情報が出るたびにえ……………?と思ってて、正直2年前にやった解釈が今どれだけ通用するかはもう全然分からないですね。せっかく聞きに来てくださったのに申し訳ないんですが、すみません、一旦お手上げにさせてください……………。紙マテ入手して、夏イベ完走してから出直します…………。






覚えております!また近況を教えていただけて、また創作も見ていただけて大変嬉しいです。終末の会の前半は文章優位の方向けにnoteに台本をテキストで置いていたりもするんですが(私もそうなので)、ドラマパートになるとどうしても演技を見てもらいたい気持ちがあり、難しいところですね……少しずつでも見てくださって本当にありがとうございます!


ご友人の件に関して。お仕事でも同じような患者さんを見ておられるのに、ご友人になると「嘘はつけない」と思ってしまうのは、あなたの誠実さの表れなのだなあと思います。自分も充分には世界を愛せていないのに思ってもいないことを言って励ますのは、すごく罪悪感にもなるし、苦しくて。私がお世話になってきたからこそ、日頃精神科の患者さんに向き合うことを仕事にしておられる方のことは本当に尊敬します。

鬱を始めとした精神疾患は、周囲の人がたとえどれほど健気に尽くしたとしても、本人に治療への積極性がなければ快方へ向かわせるのは難しいところがありますよね。私も何度も友人や身内を手助けしようとしてできなかったから、思い出すだけで気が塞いでしまう。人を助けるって本当に簡単なことではないんだなと、結局は私の努力で手が届く範囲には限界があるんだなと、今は思います。

冷たいようだけど、最終的には相手に同調しすぎないこと、自分が苦しくならない場所まで距離を取ってからできることを探していくのが、長く側にいてあげるためにも重要なんじゃないかと思います。共倒れすることが一番相手のためにならないと信じてやっていくしかない。
必ず報われるとも限らないけれど、あなたの優しさがいつか良い方向に花咲けばいいなあと願っています。そして、こうした状況にあっても嬉しかったことを一緒に添えて送ってくださる感性が本当に素敵!!たとえ辛いことが多くても、日常の中にある嬉しい出来事を忘れないようにしたいですね。私はまだそれが上手くできないけれど、見習って生きていきたいです。





応援してくださってありがとうございます!見守っていただけてとても嬉しいです。

当該ツイートにはちょっと端折って書いちゃったのですが、「益」というのは物理的・実利的なものだけを指しているわけではなく、「話していて楽しい」つまり知識や娯楽の点で自分にとって得るものがある有益な会話ができる、というところまで含めての話です。そう考えるとあまり不思議な話でもないのではないでしょうか……?どうだろう。

昔は有益な話ができていたけど、今はもう違うな、と思ったら愛着という感覚が薄いのでもういいかと思ってしまう部分はありますが、それは自分としては合理的な判断だと思っている。得られるものよりもコミュニケーションの労力の方が上回っているのにずるずると関係を続けることはお互いのためにならないから、離れるにせよ何にせよ改善した方がいい。
冷たいと思われると悲しいな、私は本当にできることなら多くの人と仲良くしたいと思っていますよ。以前は楽しく話せていた人とそうできなくなるのは悲しいことだから。でもまあ、単にその感傷だけで一緒に居続けることは難しい。だから少しでも長くお互いにとってお互いの存在が有益であれるように、努力していこうという気持ちは持っています。失望が来ないように祈っている。





私も概ねそのように思います。自身の創作物を自分そのものと同一視している傾向がある人は、作品への批判を人格の否定と捉えやすいことからも分かると思う。私は元々そこは別だという認識の割合が高いので、バーチャルにおいても同じように思うのかもしれません。
Vキャラクター≒中身の配信勢もそれはそれとして貴重な文化だと思うのですが、個人的にはやはり完全ロールプレイ勢やストーリー勢への期待の方が強いのももしかしたらその辺の影響なのかもしれない。単に自分の代理としてではなく創作物としてのバーチャルアバター利用、私が関心があるのはずっとそこなのだと思います。

ただ自己愛の問題に関しては、その人がどれくらいロールプレイのつもりでキャラクターを演じているのかは、言われなければ外部からは分かりづらいことも影響していると思う(私は例外的に言えるけど、大抵のライバーは「演技です」とは言わない)。
今はバーチャルキャラクター≒中身で活動されている方がとても多いから②の認識がデフォルトに近いのは当然と言えば当然で、「このバーチャルキャラクターは演じられた創作物だから自分自身じゃないんだ、そのことは言えないけど自己愛じゃないことは分かってね」と言うのは無理がある話とも思う。その認識の齟齬が苦しければ言えばいいじゃないと思ったので私は言ったというだけのことなのです。
環境が変われば多くの人の見方も変わってくると思います。バーチャルアバターのもっと多様な使い方が普及すればいいなと思うのは、その方が楽しいだろうから!というただその一心で。今はこれからの文化の発展をとても楽しみにしています。





私は「甘え」という観念をあまり信じていなくて……この言葉自体が、人を攻撃するために生まれたのではないかとすら思っています。一見、正しい指摘のように見える。「真面目」や「真剣」と同様の美徳が「甘えないこと」のように見える。けど本当にそうなのでしょうか。
私は、人間が前に進むために必要な行動にはふたつの要素があると思っています。

①心の健康を保つための行為
②労力を消費して具体的な活動をする行為

このふたつはそれぞれストレスゲージを減らす/増やすはたらきを持っていて、どちらかだけでは決して前に進んでいくことはできない。自分が健康な時には主に②、つまり勉強や仕事などに打ち込んで、たまに①の休息を取れば問題ないでしょう。でも鬱っぽくなっていたり、②が自分の身に余るほど過酷だったり、①をしたくても自分にとっての休息とは何なのかがわからなくなっていたりすると、簡単にそのゲージは振り切れて壊れてしまう。

今、その人のストレスゲージがどういう状態なのか。その人にとって一番必要なのは①なのか②なのか。これは第三者には分かるはずもないことで、分からないのに休息を取っている人に対して「甘えだ」と決めつけることはひどく暴力的な行為だと思うのです。私はそういうことはしたくない。
あるいは本来なら前に進むために不可欠な要素であるはずの①をただの怠けだ、罪だと思い込んで、無理にそれを避けようとしても同じことが起こります。

ちゃんと①②のバランス調整ができている、前に進んでも自分は壊れてしまったりしない、という状態になってからじゃないと、無理矢理に進み続けることは単にみずから破滅に向かっているにすぎないのだと思います。もちろん時には無理をする場面もあっていいけれど、無理をした分はどこかで取り返さないといけない。それで、最初に言ったようなことに戻ってくるのです。休息すること、勉強や仕事を放り出して好きなことだけをする時間は常に「怠け」なのか?私はそうは思わない。ストレス値が溜まっている人にとっては、むしろそれを自分に対して禁じることの方が、"非合理的"だということになるのです。

自責的な思考についても同じことが言えます。
①自分を甘やかし、慰めてあげる思考
②自分を叱り、立ち上がらせる思考
これらはどちらかが正しいわけじゃなく、また誰かの物差しで規定されるべきでもなく、「自分が息をしやすくなるバランス」が最も合理的なのです。私は少し、前回のときに上手く伝えられなかったかもしれないことを悔いています。前に言いたかったのは、投稿者さんにはあくまでおたよりから推察できる範囲においてですが、①が圧倒的に欠けているように思えたので、自分を守ってほしいということでした。

あなたが大学に行き続けることで精神が壊れてしまう、と予感して辞める決断をしたのなら、それは正しかったと思います。努力とは常に誰にでも無限にできるものではない。どうにか①と②のバランスが取れる地点が、その時の自分にとって「最も努力できる限界」なのだと私は思います。
私もかつて精神病のせいで行きたい学校に行けなくて、できなかった活動があって、今もそれへの未練は消えないけれど、「もっとやれたはずだ」とは思わない。私はその時の私にできる精一杯のことはやっていた、あれ以上無理をしたら本当に壊れていただろうと分かるから。悔しいのは自分の限界がその地点だったということだけです。

これだけ言葉を使ってもうまく伝えられたか今も分からないし、全ての人に納得してもらえる説明だとも思わない。ですが、とにかく私の持っているものを伝えたいと思った気持ちだけでも分かっていただけたらと願うばかりです。どうかあなたに少しでも穏やかな生活がありますように。



0コメント

  • 1000 / 1000