「宗教を信仰するのは自己の利益のためか」という質問


まず、宗教の聖典というのは基本的に「理解しづらい」ように書かれている傾向があります。それは信徒が一生をかけて読み込むものであるからで、一読しただけで内容をほとんど理解できるのであれば、一生読み続けたら飽きてしまう。もう何度も読んだはずの箇所であっても、人生のあるタイミングでふと「ああ、ここはこういう事だったのか」と突然分かる瞬間がある。それだけの深みを持たなければならない以上、どうしても難解になってしまう面はあると思います。

しかし誰にも理解してもらえなくなっても意味がない。キリスト教であれば、ここを礼拝時の説教で噛み砕いて解説することで、より多くの人々に教えが伝わるようにしているわけですね。子ども会や教会学校での勉強もそのための取り組みです。
新興宗教にしても、多くは「聖典は難しく、説教は易しい」というパターンに沿っていると思います。それは施設に通ってもらうこと、対面でのコミュニケーションをすることに信仰生活の重きを置いているからでもあります。

投稿者さんが通っていたのがどこかは分かりませんが、お偉いさんの解説が難しすぎたのであれば、あるいはその説教は「分かりやすい解説」ではなく「分からないからこそありがたいお話」だと思わせることを目的として行われていた可能性もあります。初めから権威を持っている大きい新興宗教だとその姿勢でも成立する。
私が昔行っていた新興宗教はそもそも小難しい話が好きな人にターゲットを絞っているようなところで、そういうパターンだと分かりやすさを求める人々は最初から振り落としているような場合もありますがね。

ひと口に宗教といっても、どういう信者層を想定しているかによって聖典や説教の難易度は大きく変わってくると思います。難しすぎるとついていけない人が出てくるし、易しすぎても物足りなくて離れる人がいる。その人にはどこが合うのか、というのも結構これによって変わってくると思います。



二つ目について。これは確信を持って言えますが、私は信仰とは究極的には「自分の利益のため」であると考えています。世界や人類、来世のためであるように見えても、結局はそれをすることで自分が幸福になるからするのです。
投稿者さんはそうした姿勢を不誠実なように感じていたのかもしれませんが、そもそも神の概念とは人間のためにあるもので、利己心から利用しようとすることも間違いではないでしょう。

しかし、「困った時にだけ神に祈り、幸せな時は見向きもしない」姿勢が信仰者として望ましくないのは事実です。なぜ多くの信仰者が、自分が幸せな時にでも神の存在を忘れずに感謝して祈り、それを望ましい姿勢だと語るのか。それは結局のところ、回り回ってそれが最も自分の利益になることを知っているからなのだと思います。

忘れればその分だけ天啓を得る機会を失う。愛さなければその分だけ愛を感じ取る機会を失う。ゆえに「神を蔑ろにすることは自分の利益にならない」、この確信があって初めて、いわゆる敬虔な態度を手に入れられるのでしょう。
人間はただ自己の幸福を求める一心のみによってでも、敬虔でいることは可能である。私はそう思うので、「神様のため、みんなのため」という利他的な論理はすっ飛ばしても問題ないと思うのですね。

まあその、特に新興宗教には色々ありますから、団体名がわからない以上入ることを推奨するわけではありませんが。ただこうして「なぜ自分に合わなかったのか」を分析して、私に送ってくださったということは、神や宗教というものを信じたかった気持ちが少なからずあるのではないかと思いました。信仰は万人にとって救いであるわけではありませんが、それをしたいと思っている人がいるのなら私の考えくらいは伝えさせていただきたい。宗教に関わるとしてもこのまま離れるとしても、あなたの人生が幸せになりますように。





水沢教会

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