お題箱返信・2023/06/22
こんにちは。毎度ながら返信をお待たせしております。月1返信ぐらいでご容赦いただければ幸いなのですが、おたよりはどれも本当に嬉しく生きる活力にさせていただいております!近況はnoteなどからお察しください。
これはまさに私自身も思い続けてきたことで、「愛の可変性」の概念に苦しめられて何度鬱病になりかけたことか分からない。以下にその証拠を見せます。
??年12月16日
永遠のものが欲しい。それは物理的な話ではなくて、人の思いについて、永遠の保証が欲しい。愛するものがいつか死ぬ、そして別れることは何の問題でもないと思う。一生に一度狂おしいほど何かを愛せたらもうそれだけでいい。わたしが耐えがたいのは、人の思いに、永遠のものなど何ひとつないということ。
これほど愛しても、いつかどうでもよくなってしまう時が来るのだろうか、いつかは嫌いになってしまうのだろうか、それを思うだけで絶望としか言いようのない感情に駆られる。心にスイッチがあって、カチッと回すだけで、今の感情を永久に固定できたらいい。愛も憎しみも忘れないでいられたらいい。だけどそんなことはできないから、どれほど強い憎しみも、愛も、時が経つにつれていつかは薄れてすたれる。この人のために人生すべてを捧げてもいいという思いですら永遠ではない。みんなそれを証すために生きているようなものだ。
人の思いの可変性、これがどうしようもなく悲しくて、わたしは人ひとりのことですら満足に愛せない。手放したくないよ。一生好きでいたいよ。だけどわたしはわたし自身のことが誰よりも一番信じられない、(いつか愛するものを嫌いになってしまうかもしれない自分を)心の底から憎悪する、永遠なんてものがないのなら……いまのこの愛着に、一体なんの意味があるのだろう?泣いてしまいそうな苦しみに、一体どれだけの意義があるのだろう?いずれは全て忘れ去ってしまうのだとしたら。自分にとって自分が、取るに足りないものに成り下がってしまうとしたら。
永遠の保証が欲しい。わたしのこの思いが、いまの思いが永遠だって信じさせてほしい。誰にも愛してもらえなくたって全然かまわないんだ。ただわたしが一生、何かを愛していられるのなら。その確信が持てるのなら。
??年1月12日
一生愛したいと思った人への思いですらいつかは消えてなくなる。虚しいことが沢山あるのを知っている。どれだけ愛したいと思っても嫌いになる、なってしまうことはあるのだし、それで何もかも虚しいような気がしてしまう。一生愛せるわけじゃない。誰のことも。私は誰のことも愛したことはない……あったのかもしれない、確かに。いっときのことなら幸せだった時間も、心を通じ合わせた幸福な経験も、あったのかもしれない。だけど失くしてしまう。そんなに幸せな経験ですら簡単に失くしてしまう……わたしはそのことに耐えられないんだ。
少なくとも1年以上は前の話です。全てが解決したわけではないですが、今となっては、これらの疑念に過剰に支配されてしまうのは自己不信ゆえではないかとも思う。つまり自分のことが嫌いなんです。自分が何かを愛するという行為が不自然で欺瞞に満ちたもののように思えるのは、「愛は誠実な行為」だと信じているから。
ゲームやアニメを愛することも同じだと思います。長く同じところに居続けることこそが愛で、散々好きだと言ったのにすぐに離れてしまう自分は嘘つきで薄情な人間のように思えてしまう。だけど一度離れたら愛していた年月が「なかったこと」あるいは「嘘だったこと」になるのかと言われたら、そんなことは無いと思う。愛すれば愛するほど、その人/その作品の言葉や思想は自分のものになって思考回路に吸収される。何を好きだと思うか。何を正しいと思うか。誰を好きになるか何を選ぶか。私たちは常に自分の目と耳に触れたものから人生の指針を構築していて、「離れることを思うだけで泣いてしまう」というほど愛したものから、あなたが何も学ばなかったわけはない。
今はもう自分の前から去った人の言葉。かつて好きだった映画の台詞。押し入れに眠っている漫画の1ページ。私たちは普段、そのどれが自分の人生や選択に影響しているのかを明確に知ることはないかもしれないけれど、一度は壊れるほど愛したものの影が完全に自分の中から消え去ってしまうことなどあり得ない。良い意味でも、悪い意味でも、心から最後の一粒まですっかり取り除いてしまうことなどできないのだと思う。
生きていくことはそういう経験の繰り返しなのかもしれないと思います。長く生きて、沢山のものに触れて心の形を変えたあと「あのとき好きだった作品」にまた再び出会ったとき、初めてそれから受けた影響の甚大さに気付く。そうしたら多分わたしたちは、ようやく「こんな経験も悪くないな」と笑って言えるようになるでしょう。
あなたは悪くない。見放されるべきだなんて思わないでください。私自身も発達障害だし、周囲にもアスペルガーやADHDが非常に多かったので質問者さんの状況もかなり想像がつきます。というか、ほぼ同様の理由で今も人間関係に悩む友人を知っている。
ご家族から見れば「気が利かない」のかもしれませんが、逆に質問者さんの立場から見れば彼女らは「理不尽だ」とさえ思っていい。これはどちらが正しいという話ではなく、双方の「どちらの環境の方が生きやすいか」という違いゆえに起こっている衝突だと考えられる。
ささいな労力を払うだけで家事や人への気遣いが十全にできる人たちからすれば、それをしないことはデメリットしか齎さない非合理的な動きのように見える。けれども、障害や病気の有無とも直接関係のない地平で「家事や人への気遣いを十全にするには常時の緊張と労力が必要」という人は一定数存在し、そういう人たちにとっては仕事/学業でもない場所ではその緊張を抑制することこそが最も合理的である。家をきれいに保つとか、生活用品の補充を忘れないとか、ちょっとした他人へのサービスをするとか、そんなことで気力を消耗しきるよりは二の次にした方が結果的にQOLが向上するのだ。無論、発達障害などが加味するとそこまでの緊張を要してもなお100点を出すのは困難で、前者タイプの人とはとことん相性が悪い。なぜなら前者の多くはこういった背景に気付いておらず、「怠けている」「なぜわざわざ非合理的な動きをするのか」としか思っていないからである。
たとえ家族でも、このタイプが違えば相当喧嘩にもなるし迫害も起きる。しかし各家庭でどちらが正義とされるかは多数決だったりもするのです。多くが「きっちりさん」ならそういう家庭の雰囲気になるし、みんなが「のびのびさん」なら時間や片付けにも多少ルーズだったりする。社会に出ると、この生育環境による人格形成の差でまた人間同士の軋轢が起きたりもする。こうした「常識」は所詮はローカルコミュニティ内での規範にすぎず、家族もまたひとつのコミュニティであるから。
質問者さんのようなタイプの家庭の方は、「細かいことは気にするな」派の極北を見たら気が狂うんじゃないでしょうかね。かくいう私もわりと綺麗好きかつ気遣い屋の家庭で育ったので、真逆の友人の家にお邪魔してとてつもないカルチャーショックを受けた経験があります。
とにかく、どちらが優れているとか劣っているとかいう以前に、「タイプが違うのだから仕方ない」という面も一つにはあると思います。質問者さんにとって一番いいのはなるべく同じタイプの人たちが多くいる場所を選んで歩いていくことだとも思うので、職場もあまりきっちりさんしかいないようなところは避けた方が吉と思います。きっとすぐには難しいでしょうが、いつか一人暮らしができたら「家事や交流を自分の好きなタイミングでできて、やらなくても即他人の迷惑にはならない」という環境はとても幸せなものに映るんじゃないかな。金銭的に自立するにも、心を守ることが一番大切です。あまり自分を責めずに、そして「いつか」という希望を捨てずにどうか頑張ってください。
ご心配、本当にありがとうございました……!!!!!!!!!!メンタルが壊れかけていたので、大変だったとき、このおたよりを見て励まされました。ようやく心身の元気も戻ってきたので全力でオタクをしています。生きるってすばらしいことだよ。家を失っても、死にそうになって大泣きしても、雨が上がればまたこんな幸せな経験ができる。ああ全然、反出生主義からは転向してないんですが……。
それから、お言葉に甘えて欲しいものリスト貼らせていただきますね!なんか色々落ち着いたら新居に祭壇つくろうと思ってかわいくてでかい本棚を買いました。
スラムダンク、めちゃくちゃ色んな人におすすめされている……!!バスケに沈黙があるって本当?配信等に追加されたら見てみようと思います。おすすめと、それからお祈りありがとうございました。私も愛してるよ。
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