2022/02/27・お題箱返信


前回から引き続き防犯のことについて。警察を騙った電話がくるの……怖いよ〜〜っ……!しかもストーカー相手に心当たりがあればあるほど「やっぱり!」とすぐに納得してしまいそうで狡猾な手段ですね。気をつけます……そしてご友人の無事を願います……
スマートキーというものを初めて知りました。どんな家でも後付けでオートロックにできるみたい。技術の革新ってすごいんだね……






お米がうまく炊けなかった回。ツイッターでも返したんですが本当にありがとうございました、人の優しさを……リゾット大好きなのでお米がうまく炊けたときもやろうと思います。




前回のお題箱返信からですね。そんなふうに受け取ってくださってありがとうございます。「愛の話」は真剣にやろうとすると何時間使っても足りないのでとりあえずここでは一つだけ言うと、

「一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに『あなたを愛している』と言うことができるなら、『あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している』と言えるはずだ」──フロム・愛について

すでに何度か引用していますが、フロムのこの言葉が本当に真理だと思った。amazarashiの歌詞にある小さな愛が救いのように見えるのはこういう理由のような気がします。どんなに救いようない世界、どんなに醜い世界でも、その地上にたった一人愛せる人がいるのなら、わたしたちはその人を通してすべての醜悪さを受け入れることができる。「これまでの苦しみはすべてよかった」と言えるようになる。

現実には、それほど大いなる愛に出会える人は限られているのでしょうが。だからこそ誰もがひとしく出会うことのできる神の存在が求められるべき。(思想)







本当に良い曲ですよね〜っ……。資本主義揶揄というよりは、そういう社会にいるすべての人々の痛みを描いた曲、と思います。サビの怒涛のような単語の並びがまさしく現在の社会の消費速度を表している。
「消費せよ それ無しではこの先生きていけない」「急いで買いに行かなきゃ」という言葉から見えてくるのは消費社会にいる人々の張り裂けそうな悲鳴で、一歩違えば「なにをそんなものに必死になってるんだ、馬鹿みたい」という茶化しになってしまいかねないところを、丁寧に彼らの痛みを掬い上げる手腕がさすが先生です。リリースが2012年なのがまた……その頃からこれを書けるって時代感覚がすごい。







↓フルーツバスケットのネタバレがあります
フルバ読んでもらえて本当に嬉しいです!振袖の件いいですよね。でも全然「僕が慊人さんが振袖着てるとこ見たかったから☆」の気持ちもありそうでそういうとこなんです。
草摩紫呉の一番ひどいのって繭子に対する接し方だとずっと思ってるんですがどうでしょうか?繭子がはとりと佳奈が交際しているのを見て辛くなっていたとき、一番寂しかったときに心の隙間に割り込んできて、そのくせ何も与えてはやらない。繭子がはとりの代わりとして紫呉を求めかけたらわざと突き離して「何やってるんだろう私は」と思わせるように仕向けている。紫呉はそれで虚しくなってる繭子を見て「愚かな女おもしろ〜(笑)」と笑ってるだけですよ これがさー 一番ひどい

草摩紫呉の話するとめちゃくちゃオタクになっちゃうな 早口長文失礼しました







兄弟営業……ってコト……? わたしは擬似兄弟の"擬似"である点に萌える層がそれなりにいることも知っているので(タイムライン参照)そういう人にとっては最高かもしれない。

好きな兄弟って言われるとまあカラマーゾフ……ですよね……すべての兄弟はカラマーゾフに通じているといっても過言ではない。なかでも三男アリョーシャと次男イワンの関係が好き。敬虔な信徒の弟とこじらせ無神論者の兄、すごいですよ〜……。韓国版ミュージカルに「ブラザーカラマーゾフ」っていうのがあるんですが、あれのアレンジがすごかったのでおすすめです(ここでおすすめして誰かに刺さるのか……)




ピンドラ本当に面白かったです。今まで勧めてくれていたフォロワーありがとう!
残酷な描写はわたしはとくに気にならなかったですよ。色んなことがメタファー・デフォルメで描かれているので、人が苦しむような描写があっても直接的なものはあんまり無かったように思います。それよりメンタル面であああ〜……となるシーンは多いですが
ぜひ見てください〜、よろしくお願いします!





真摯に祈ればいつだって神様に愛されている実感は得ることができます。語りかければいいだけです。時々、本当に導きだとしか思えないようなことが起きる。だけどそれはきっと誰にでも起こるような偶然で、ただわたしがそこに神様の存在を感じているだけなんです。
導きやメッセージを受け取る準備ができている人のところにしかそれは来ないから。盲信だと思われますか?それでもいいよ、わたしは神様の導きがなかったらとっくに破滅していた。今も、破滅しかけでは、ありますが……





大学出ているにもかかわらず特にないですね〜、学問というくくりで言われると……なにかを体系的に勉強するということをあまりせず、色んなもののつまみ食いをして生きているだけです。好きなのは社会学・人類学かも!






祈りには2種類ある。無神論者のするものと信仰者のするもの。わたしは特に前者のことを不思議に思っていて、たとえば「家族が平和に暮らせますように」「戦争のような惨劇がもう二度と起こりませんように」みたいな大きな願いは、その人が無神論者であっても対象不明の存在に対する祈りという形をとって言語化されることがある。
信仰者の祈りは、神への語りかけ。静なる対話の性質を持っている。祈ることによって「ああ、今神様はわたしにこうすることを望んでおられるのだな」という気付きに至る可能性がある。ある意味では自己に内面化された神との対話、と言ってもいいかもしれません。

それを欠いた無神論者の祈りは、行き着く先がなくて宙に浮かんだままに見える。平和でありますように、亡くなった人が安らかでありますように、そう祈りはするけれども、彼は「神がそれを実現すること」を信じているわけではないのだ。
無論、信仰者の祈りだってそれが行動に繋がらないのなら無責任な行為だとも言える(そう言うことは冒涜だから言いたくないけれど)。祈るだけで何かが変わるのならよかった。その言葉が本当に現実に対して意味を持つのであればよかった。だけどそうではないなら、祈るという行為はなんの実りをもたらすものでもない。むしろ悲惨な現実から楽観的なほうへ目を背けさせる役割を担っているだけで、時に卑怯でさえあるのだと思います。


けれどわたしはだからといって祈りが否定されるべきだとは思わない。祈りは完全な幸福の中からは生まれ得ない、つまり、祈るとき人は絶対に不幸や恐怖の中にある。人の力ではどうにもできない天災や戦争、そういったものがどうかなくなればいいという耐えがたいほど切実な希求、それが無神論者をして対象不明の神に向かわせているのでしょう。わたしはその優しい人の思いを踏みつけにはしたくない、たとえどれだけ意味を持たなくても。

しかし、時には「自分は祈ったことで何かした気になっているだけなんじゃないか」と自省する気持ちも持っていたいものですね。これは自分を苦しめるだけの行為ですが。だけども「平和になりますように」という人類史上何千回も何万回も繰り返されてきた「祈り」が意味を持たなかったからこそ、今のこの世界があるわけです。



 

水沢教会

マシュマロ回答コーナーと化している

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