オベロンについての質問と回答まとめ⑧

【すみませ‪〜〜〜〜〜‬‪ん!!!!ここも後々解釈が変わってきたので正しくは質問と回答11を参照してくださ‪〜〜〜〜〜‬‪〜い!!!!】

改めて言われると「愛」を定義するの死ぬほど難しいな……辞書編集者とかの領域だ。

「情」のほうは「なさけ」と言うと分かりやすいかもしれないですね。愛はないけど情はあるというのは、オベロンがアルトリアが虐待されているのを放っておけなくて手を貸してあげた部分などを指して言ってます。

相手のことを「好き」じゃなくても、目の前の相手が辛そうにしていたり苦しんでいたら助けてあげたいな……となることはある。ただオベロンの場合「情」を抱く相手/機会も限りなく少なくて、明確にそれが分かるのってアルトリアの箇所ぐらいな気もするなあ……

恋愛感情はもちろん友愛、親子愛みたいなものを抱くこともない。だから質問者さんの言うように「好意はない」という理解でいいと思います。ただそれがイコール「全てが気持ち悪い」に直結するかというとそうでもなくて、中間には「別にどうでもいい」とか「嫌だけど吐き気を催すほどではない」ぐらいのものもあると思います。







私は【質問と回答⑤】で書いたとおりの解釈なので「それぞれの感情を少しずつ切り貼りしている」だけで「単体での全人格的な思考はできない」と思ってるんですが、まあ、願望は自由なのでね! こうあってほしいなーと思うのはいいと思います。

ヴォーティガーン成分が多めなのは、創造元(英霊召喚システムさん、メタ的には奈須先生)的にも「同じバランスで配合しよう」みたいな意図は特になくて、ざっくり混ぜたらこういう感じになったね〜。という感じだと思います。

というかオベロンとヴォーティガーンって絶対めちゃくちゃ性格違うからなあ……それをセットにするにあたって「利害の一致」って多分あり得なくて、衝突する部分は「どっちかを不採用」にして折り合わせる以外にないんだろうなあ……。





「役」があんまりにも馴染んでいて、自由自在にその役としての振る舞いや発言ができるもんだから、その役をまるで自分のもうひとつの人格のように扱える。という風に解釈してました。

もうひとつの人格……というか、より正確には「自分そのものとして」。だからもはや別のところから借り受けてきた作り物の役じゃなくて、「その気になればそういう風に生きていける」ぐらい使いこなせているんだよという。

現実の話、いくらすごい役の作り込みをしている俳優さんでも、これから一生その「役」をやり続けたまま生きて死ぬことができますよ、という人がいたらちょっと怖いと思う。でもオベロンはそれができる。
セリフもない、ト書きもない状態で、「演者」の主観や判断を一切混じり込ませることなくその役に「なる」。「なりきる」というレベルではなく。

で、まあ妖精王オベロン役だろうがオヴだろうが虚構判定が入ることには間違いないけどね。という話だと思います。






カルデアにティターニア来る可能性ある?来たらどうする?に関しては【質問と回答⑦】を参照願いたく。

ティターニアは「ワガママで偏屈なオベロンをそれでも愛した女の子」。だからオベロン自身、自分の振る舞いは現実でやったら通用しないだろうと理解していると思います。あんなワガママを許してくれる女の子は物語の中にしか存在しないのだと。

「夏の夜の夢のティターニア」はそんなオベロンでも許してくれたから、だからこそ彼はティターニアに何よりも深い愛情を向けるのでしょう。

何をやっても愛想つかされるということはなくって、それはなぜかというと、「夏の夜の夢のティターニア」は「そのようにあれ」と生み出され、描かれたものだからです。

オベロン自身、自分のワガママに付き合わされた、"そういう風に生まれさせられた"ティターニアに罪悪感や憐れみのような感情を覚えています。それは結局のところ誰のせいってあいつだよシェイクスピアの野郎だよ。

まあその辺りのこともあって、私はティターニアには永遠に物語の中にしか存在しないものであってほしいなあ。現実(カルデア)に出てこられると「そのようにあれ、そのあとはなし」という一番旨みのある文脈が消えちゃうからね……!と思っています。



 

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