反出生主義と母性の葛藤
たとえば生まれたての子犬を抱いていて、その子が必死に私の指に縋ってくるのを見ていると、まったく言いようのない感情に支配される。
ひとりではご飯も満足に食べられないのだ。よく餌をふやかしてあげて、それでもどうしてか食べたがらなくて、指で口の前に持っていってあげてようやくちろちろと舌を出す。少しずつ少しずつ舐めているあいだ大人しくしているなんてことはなくて、私という人間が側にいることを耐えず確認して、膝の上に乗ったり首を振ってみたり実に忙しなく動く。
かわいいとか、愛おしいとか、そうだけどそうじゃない、これはもっと大きな何かだなと思う。
私の庇護下にある、ちょっとでも手を滑らせたら壊れてしまいそうなやわらかい生命。体温と鼓動を感じる。生きている、守ってあげたい。私は……この子を……、
ああこの気持ちを、恐らく母性と呼ぶのだろう。
私はとにかく人間という存在のことを好ましく思っていないけど、正直言うとあなたの気持ちはすごく分かります。
私が母性というものについて考え始めたのは他人にそれを指摘されたからでした。創作物を匿名で発表したとき、極力そういう描写を排しているにもかかわらず「この表現から母性のような感覚を感じるから、作者は女性ではないか」という講評を受けたことがあって、それで本当に驚いたんです。
子どもが好き、自分の子どもを育てたい、という感覚はそれに近いのじゃないでしょうか。多分「好き」という言葉では形容しきれないような安らかで温かい感情。私の場合はですが、多幸感にすら似ているかなと思います。
これは或いは、生物としての人間に刻まれている本能のひとつなのかもしれない。私たちはいくら理性的な行動を取っているように思えても、こういうどうしようもないところで何かに突き動かされているのかも。それは少し怖いけれど、でも私はそのことに奇妙な安堵を感じてもいるのです。
共感、ということが難しい人生を送ってきたのに、もしもそういう深い深い部分で人類総体とのつながりを持っているのなら、それは面白いことだなと思う。
なぜその気持ち[母性本能]があるか、と言われたら、やっぱりどうしようもなく人間だから、ということになるのではないでしょうか。
そしてこの本能の強弱は後天的思想とは関わりがない。反出生は頭で考えて、後から身に付けた思考様式ですから、結局のところソレに勝てなくても無理はないのだと思います。
もちろん、私は反出生が正しいと信じている。この世に苦しみを生み出すという罪を犯してはいけないと思っている。でもそれと同じように、相談をくれた方が子どもを慈しみ、愛おしむ気持ちを尊びたい。
湧き起こってくるその思いは、本来押し殺さなければならないようなものではないのです。人間はそのようにできているし、それが当然の流れなのだから。
反出生主義はいわばその流れに逆らうもの。当然、誰かの善意を否定することも、誰かの権利を踏みにじることもあって……だけど"それでも"、と言ってしまうある意味すごく強引な思想かもしれません。
だから私も、母性を尊びたい思いのまま敢えて言いましょう。私たちが生み出そうとしているのは「子ども」ではない。そんな風に優しく、柔らかい存在ではないと。出産という行為は[この世に人間を発生させること]。そして私たちはその責任を取る方法をひとつも持っていないということを。
私は人間という存在が根本的に嫌いだから、それを発生させるという行為にひどい嫌悪感を覚える。それが「子ども」となるとマシなもののように思えてくるのは不思議だ。この世はそういう欺瞞で成り立っている。
相談された方はきっとこういうことも分かっておられるでしょうけど、こちらのお話をさせてもらっちゃいました。
これまで言わなかったけれど私も子どもを持ちたいと思ったことがないわけではない。だからその葛藤もよく知っている。がんばれ、というか、がんばりましょうね、と言わせてください。
叶うなら人類全員、そのようにがんばってほしいところであるものです。
あと、もし川上未映子の「夏物語」を未読でしたら、絶対に読まれるといいと思いますよ。きっと良い体験ができるはずです。
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