資本主義と信仰のおはなし

こんにちは。最近はフルーツバスケットを読み返して号泣したり呪術廻戦にハマったりしています。一週間寝込んだあとにフィットボクシングやったら体力カスカスになりすぎて死にました。



ありがとうございます〜!鋭いですね!!note読んでくださってる方ならお分かりかと思いますが、近代化/資本主義/ナショナリズムあたりのテーマはまさに社会学からの知識ですね。マルクスは良いぞ……。
このさいはっきり言うが私は資本主義が心底嫌いだ……共産主義もだめならやはり前近代への回帰こそが正義……。(思想の強い人)


それはそれとして。文化人類学・心理学あたりもちょっとずつ齧っていて、特に私の思考の形態は文化人類学の影響を強く受けているなあ〜と最近思っているところです。ソシュールの言語理論、レヴィストロースの構造主義など。

 
noteで社会学的な話をするときにもだいたい二項対立に基づいて書いてしまう。何にでも適用できるけど特に物語分析をするときにこれが使い勝手が良すぎるんですよね……



ちょうどこの話題を出したので前から思ってたことを書いておこうかな。
文化人類学的観点から見ると、人間には二項対立の「はざま」にあるものに恐れや近寄り難さを感じる傾向がある。

男でも女でもないもの/昼と夜のあいだ/森と村の境界/限りなく人間に似せた人形/人のような動きをする動物

しかしこれらは既存の秩序では括れないがために、むしろ畏敬や信仰の対象にもなりやすい。大衆にとって「理解しがたいもの」=超越的な存在、と映るわけですね。


いわゆるオカマと呼ばれる人々に対する「一般人よりも深い人生経験があるから良いことを言ってくれる」みたいな幻想もそのひとつと言える。男女のさかいにいる人々への信仰。周囲からそう見られるというだけではなく、自身が二項対立のどちらにも属していないから、どちらからとも違うものの見方をすることができる、という理由もある。

あるいは「三歳までは神のうち」という言葉も如実にこの考え方を反映している。乳児の死亡率がとても高かった時代ということもあり、人と人になる前(産まれ出る前)の境界がとても曖昧だった。そのため、三歳以下の子どもはある種の神聖視の対象となっていたのだ。



で、なんの話かっていうと私のことだから天草四郎の話に帰結しますよ。史実はどうあれ、伝承あるいは後世の創作における天草四郎像は、あらゆる点でこの二項対立の境界にいる存在として語られてきた。

人と神のあいだ。青年と少年のあいだ。男と女のあいだ(中性的な容姿)。外国人の血が混ざっていた、という創作物でまま見られる仮定もこの「存在の曖昧さ」を引き立てている。

どちらに立っているのか分からないからこそ、人はソレに畏怖を抱く。神聖視をしてしまう。二項対立のさかいに居るのは、すべからく"それまでの秩序(常識)"を壊す存在なのだ。


とまあ、こういう観点からすれば「天草四郎」の設定はあまりにもできすぎのように思えますよね。特に中性的な容姿の表象は。創作物でめちゃくちゃ見た「本当は女性だったのでは、男装していただけなのでは」みたいな仮定もその性質をより強めるために必要とされてきたとも考えられる。



文化人類学を学ぶとこういうお話ができて楽しいです、という記事でした。マシュマロ回答で関係ない長文書いてすみませ‪〜〜〜〜〜‬ん!!
いうてそんなに本も読めてないし、もしガチの専門の人に見られてたらと思うとめちゃめちゃ恥ずかしいです。いつまでも知識欲を絶やさず、勉強を続けていきたいものですね〜。


水沢教会

マシュマロ回答コーナーと化している

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