お題箱返信・2022/12/08
私のお題箱でお悩み相談とかしてくれた人、その後どうなったか気になってるから教えてくれたら嬉しいよ!と言ったら何人か教えてくれてフォロワー大好きになりました。ありがとう。
使徒や弟子たちは、イエスが引き立てられていくさまを見て、自分まで捕まることを恐れて隠れていたと言います。「ペテロの否認」が有名なエピソードなのでよかったら調べてみてくださいね。
この時に関しては、イエスに付き従っていた女性たちは心配して声をかけたり、刑場に行っていた描写があるのに対して、男性陣はもうまったくですね。逆に、そのことへの強い後悔と反省から、彼らはイエスの死後なかば贖罪のように宣教活動に励むのですが。
イエスが死ななければならなかったのは、キリスト教的に正確な言い方をすると「それが父なる神の定めたことだから」だけど、宗教学的な見方をするともっと色んな意味があると思う。
私が思っているのは、イエスがこの世に存在するすべての苦しみを経験しなければならなかったのは、すべての人々の苦しみを受け止めるためである、ということ。
嘲弄されて傷つく。肉体的な苦痛を受ける。イエスの存在は、光として定められたのなら、たとえ酷い拷問を受けている最中の人に対してでも希望になり得るものでなければならない。キリスト者はどんなに絶望的な苦痛の中にあっても「でもこの痛みをあの人も知っている」と思うことで、イエスの追体験をしているかのような感覚を得ることができる。そしてまた、「誰も分かってくれない苦痛」だったものは、共感者の存在を確信できることで少しはましになる。
だから、イエスが真なる救世主になるためには地上であらゆる苦痛を経験する必要があった。あの仕打ちと磔刑は父なる神が「地上に救世主を降ろす」と決めた時から必要なことだったのでしょう。
「なぜあんな死に方をしなければならなかったのか」、それは人類を救うためだ。そして死後もすべての人類にとっての光となる、救世主の座に立つためだ。
仮にイエスがあのような苦しみを経験していなかったら、イエスの生涯は苦痛と絶望の中にある人に対して希望を与えるものにはなり得なかったかもしれない。大事なのはイエス自ら、そうしてすべての人類のために自分が犠牲となることを選んだ、という点で、だからキリスト者は彼の自己犠牲に対して感謝を捧げるのです。祈りという形で感謝を伝えることでしか、私たちは彼の行為に報いることができない。
私はもし違う道があったとしても、後世で信仰され続ける救世主になるためには、イエスは絶対に拷問を受けて死ななければならなかったと思っている。その痛みを理解できる人にでなければ救えない人の心もある。
イエスも「できることなら死にたくない」と思っていた。それでも、人類を救うためならと死に就くことを選んでくれた。「選んでくれた」ということにありがとうと思っているから、私はイエスを信じているし神に祈る。
「こころ」……!実は中学生ぐらいの時に一度読んだんだけど、さすがにあんまり覚えてなくて読み直したいと思っていた本ナンバーワンです。何なら手元にあるので、本当にちゃんと読みますね。
思い出させてくれてありがとうございます!
ほんの少しでも何かの役に立てているのなら嬉しい。信仰は向き不向きもあるし、あんまり無理しないでほしいけど、試してみるのはいいことだと思うからよろしくお願いしますね!
あなたがすこやかに生きていけますように。
祈るがいいよ!この世には信仰できる対象はたくさんいると思うけど、その中であえて私を選ぶというのならそれでもいい。信徒のみなさん、敬虔に生きるんだよ。
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